2017.6.17
「内村鑑三(後世への最大遺物より)」
内村鑑三は1861年2月13日に群馬県高崎藩士内村宜之(よしゆき)の長男として江戸小石川に生まれる。5歳の時に高崎に移り父より儒学を学ぶ。
明治10年札幌農学校(現・北海道大学)に入学、教頭のウィリアム・スミス・クラークに感化され同期の新渡戸稲造とともにキリスト教に洗礼を受ける。大学卒業後、北海道の第1高等中学校の教師時代に教育勅語奉読会で敬礼をしなかった。いわゆる内村鑑三不敬事件で教職を追われ東京に移住後、明治16年の夏に安中教会で出会った浅田タケと結婚、しかし、半年後には離婚。離職、離婚で傷ついた内村は渡米してアマースト大学、ハートファード大学に学ぶ。帰国後、足尾銅山鉱毒反対運動にかかわりたり、日露戦争に際しては非戦論を主張した。内村はキリスト教の神髄は聖書の中にあると説き、教会より聖書を重視した日本独自の無教会主義を主唱した。
内村の凄さは他にもあります。今から1世紀も前に「後世への最大遺物」講演録の中に(富は有利化されたるエネルギー。しかし、エネルギーは太陽の光線にもあります。海の波濤にも、吹く風にも、噴火する火山にもあります。)講演で述べています。敗戦で国土の縮小と荒廃に直面したデンマークを例に荒地を牧草に変え豊かな国へと再生した経緯をふまえ、資源の有効活用の必要性を説いたのです。
石油、石炭といった化石燃料に突入する前に再生エネルギーの有効性に着目していた。現在、化石燃料に依存し続けた結果、地球温暖化によるゲリラ豪雨や猛暑などの異常気候が各国に深刻な懸念をもたらしています。内村は(自然エネルギーを利用すれば小さな国で足ります。)と述べています。
我が郷土の誇り、心の灯台 内村鑑三は今日の原爆や原発の核開発を見て、どのように思い、どのように主唱したでしょう。技術革新とともに、エネルギーの恩恵を自覚して省エネの観点で生活を見つめ直す謙虚さも必要と思われます。